私たちは他人に理解を得られなくても本来は大丈夫なんだって!
アドラー心理学チックな話になりますが、
「私たちは本来、他人から理解を得られなくても問題ない」
のです。
例えば、何かの理由で
クラスで黙祷をしようという話になったとする。
そこで、黙祷をするのを拒むクラスメイトがいたとする。
すると、多数派の人が、「なんでお前は黙祷しないんだ?お前は亡くなった方々への追悼の気持ちが無い!ダメな人間だ!早く黙祷しろ!」怒ったとする。
今回着目するのが、この怒った側の人についてだ。
毎回こういう場面で、意見が対立した側を順応させようと必死になるのは、あまり健全とは言えないのだ。
なぜなら、必ずどの意見を言っても対立する人間は存在するからだ。
毎回自分の頭に血が登る結果となり、自分が損する事になる。
そこから抜け出せない人間は、相手を動かそうと意気揚々としている間に、人生が終わってしまう。
結果的に、この例の人も、人を怒った事で、自分が行う予定だった黙祷が出来ない始末だ。
もちろん、自分の意見を持つ事は大事だし、主張する事も重要だ。それを否定しているわけでは無い。
意見が対立している相手を順応させようと必死になる事が、無謀な事なのだ。
私たちは本来、
意見が対立している人がいても、「別に大丈夫」なのだ。
意見が対立している人を見て、我慢すべきなのではなく、
意見が対立する人がいても、「大丈夫」なのだ。
我慢する必要もないのだ。
「意見が対立する人がいるとマズイ!」と、誤解をしてしまう人が多い背景は分からないが、学校で絶対的な権力を持った先生が、「私が話す事が必ず正しい」というスタンスだったなら、こういう誤解が生まれるはずだ。
絶対的な意見が存在すると思ってしまうから。
絶対的な意見などないし、
「同意を求めないとダメ!」なんて決まりは無い。私たちは自由なのだ。